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Société Auguste Vestris - 2003年、パリにて
  Auguste Vestris


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2003年、パリにて
2014年8月10日

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2001, au Centre de danse du Marais

Clockwise from left to right (de la gauche dans le sens de l’horloge): Emma Brest, Pier Paolo Gobbo, Alice Petit, Alexandra Bogdanova.

Paris, 2003

1. バレエを始めたきっかけを話してください。

  私は4歳の時から劇場に生きています。いつでも舞台が好きでした。実際、私は役者になりたかったのです。
  セント・ヘリエ湾にあるオークランドで生まれ、イギリスへ行くまでそこに暮らしていました。学校から帰ったらすぐに水着に着替えて海へ。海のないところに住むなんて考えられませんでした。だから、ロンドンに来た時には、海はすぐそこにある、と思うことにしていました。

  ニュージーランドは当時50年くらい遅れていました。テレビもなかったのよ!私の先生はスコットランド人でしたけれど、オークランドに来たわけは知りません。詩の朗読を教わりました。あの頃、どこかの家に集まって詩を朗読したり、歌ったりしたものです。先生は、ヴィクトリア朝からの伝統のミュージカルナイトでいろいろな詩を覚えたのでしょう。
  皇帝を歌ったものや、フランスの物語などなど。わくわくしましたけれど、あの時以来それらの詩を聞いたことはありません。

  先生はシェイクスピアの作品も見せてくれました。私は幼いころにとても面白い形で詩を学び、いろいろな本を読みました。それが私の想像力を育ててくれました

  何はともあれ、私が初めて舞台に立ったのはちょっとした偶然からでした。初めてバレエのレッスンに行った日に、先生は生徒たちをパントマイムのオーディションに連れて行かねばならず、母とゆっくり話す時間がなくて、私たちも一緒にオーディションの場に見学に行ったのです。全員のオーディションが終わったところでプロデューサーが、「この小さな子には何ができるのかな?」と言ったんです。先生と母は「何もできませんよ。」と答えたのですが、私は「違うわ!私にもできることがあるわ。」と言って詩を暗唱しました。
  そして、採用されたのです。

  こうして、4歳半で舞台に立って、ほかの人たちを見ていました。舞台の上と普段の生活には何の違いも感じませんでした。ゲームなのかどうかもわからなかった。バレエはまるで教わってなかったので、一番後ろにくっついて真似をしていました。私が十分に覚えてほかの11人と同じように動けるようになると、振りを変えられるのです。

  とうとう私はうんざりして、ある日舞台の上で乗馬用の鞭の上に座り込んで頑として動きませんでした。観客はそれに気づいて、おもしろがり、私は以来モンスターになったのです。5歳の時、母は私を舞台から離れさせました。劇場のベビーとして甘やかされましたが、歌、芝居、照明の効果についてまでいろいろなことを覚えました。

  劇場から戻ると、ヴァレリー・ヴァレスカの下に入門しました。ヴァレスカというのは芸名で、本名はウィルソンだと思います。とても劇場的な人で、あまりテクニックにはこだわりませんでした。セットや衣装、照明もちゃんとしたショウを企画しました。今でも写真が残っていますが、それは楽しかった。メンバーには大人の人たちがいたし、プロの踊り手も何人か、それに歌手や俳優もいました。今考えても、パフォーマンスとしてちゃんとしたものでした。

  テクニックはもっと後で習いました。ツアーできていたボロヴァンスキ・バレエを見て、私も本気で踊りたいと思ってからのことです。

  私は俳優になりたいと思っていたので、テクニックはあまり気にしていませんでした。でも、いざ本気で始めた時には、それまでにやっていたアクロバットやタップが役に立ちました。私はリズム感がよくて柔軟でしたし、その上に強い意志とちょっとばかり賢さももっていましたから、遅れを取り戻すのはとても速かった。そして、ロウェナ・ジャクソンがロイヤルバレエスクールに入るためにどれほど稽古したかを見て、私も一日5,6時間稽古をしました。

2. サドラーズウェルズ・バレエスクールでは誰に学びましたか?

  最初にロイヤルバレエスクールに行ったときには、ジョージ・ゴンチャロフが教えていました。この時初めてワガノワ派を学びました。彼はワガノワのパートナーでしたから。彼のクラスが大好きでした。それと、ウィニフレッド・エドワーズも好きでしたが、背中と頭の動かし方がとても素敵で、個性豊かでした。もう一人、私を応援してくれた人がいたのですが、名前が出てきません。この先生は、『踊り』を見たいといつも言っていました。私には踊りへの情熱がありましたから、彼にはそれが気に入って、おもしろくも思っていたようです。

  そのあとでヴェラ・ヴォルコバのクラスを受けましたが、たくさんのことを学びました。背中をどう支えるかということや、ピルエットも。私は学びたい一心でしたから、彼女がほかの人たちを直しているのを聞きながらもずいぶん学びました。私自身を直してくれなくとも、そのクラスにはフランク・シャウフス、マルガレーテ・シャンヌ、マーゴット・フォンティーン、モイラ・シアラーなどがいましたから。ウェスト・ストリートの汚い、小さなスタジオで彼らを見て勉強しました。
  ヴォルコバのアドバイスや注意を聞くことそのものが学びでした。こういうスターたちもまだまだ直されるところがあったんです。

  それからオードリー・ド・ヴォスに習いました。背中のコントロールをずいぶん教えてもらいました。彼女は背骨の使い方に新しい考え方を持っていて、それがとても役に立ちました。覚えているのは、クラスでアダジオの一曲全部をドゥミ・ポアントでやったことです。引き上げと、力が付きました。ドゥミ・ポアントでプロムナードをするには、背中のキープの仕方、重心の置き方、体全体を空間にどう置くか、ということを学びます。やりながら「絶対一周はしきれない。」と思いました。でも頑張り抜いて、最終的には彼女は正しいということがわかりました。できるものなんです。体を空間に広げ、また集めるということをしながら、力の抜きどころ、体重をどう配分するかを見つけていきます。

  今の人たちを見ていて思うことがあります。ただ足で立っているというか、体を上手に利用して、体の軸と足がつながって立っているように見えないのです。バランスはただ上手につり合いが保てているということではなくて、支えられて空中に浮いているのです。人の頭や肩の上にポアントでバランスをとる、あの中国人の女性は、その生きた証拠です。あれは離れ業ですが、彼女の中心軸が完璧に引き上げられて保たれることによって成し遂げられているのです。頭や肩には力が入っていません 

  もしあなたがコール・ド・バレエにいて自分の音楽を待ちながらただ立っているだけなら、疲れてしまいます。天と地の間に浮かんでいると想像してみたら?私も立ってポーズしているのは大嫌いでしたが、一つのアクティブな存在としてそこにいる、ということがわかってからは考えが変わりました。

  パリにマイムを勉強しに来た時に能を見るチャンスがありました。そのゆっくりとした動きに魅了されました。決して動きを止めるのでなく、完全にバランスがコントロールされた動きで舞台奥に現れたと思ったらいつの間にかセンターに立っていたりします。あるいは、10分以上もじっと座っていた人が、突然立ち上がって、素早い動きをして見せます。あんなに長くうずくまっていて突然立ち上がったら、私なら動けません。このようにドラマチックな動きをできるだけの体のコントロールがあるのです。

3. サドラーズウェルズ・スクールを離れてからのことを聞かせてください。

  まず、ウエストエンドでレヴューに出ました。それからアラン・カーターのセント・ジェイムス・バレエに参加しました。メンバーにはピーター・ライトやベリル・モリナがいて、ジョン・クランコが振付家として参加していました。ミシェル・ド・リュトリィ、奥さんのドミニー・キャラハン、ソニア・ハナ(後にピーター・ライトと結婚)。これらのメンバーでBBCの「バレエ入門」という番組を作っていました。月に1回、テレビでバレエを見せて、解説したり、歴史の話をしたり、抜粋を見せたりしました。

  この小さなカンパニーで旅公演をしたときに、ケン・ラッセルが加わりました。キャラクターダンサーとしてです。私がスワニルダ、彼がコッペリウスで『コッペリア』の第2幕をやって、それは楽しかった。ケンは後に映像のほうに転向しましたが、カンパニーのメンバーとはずっと交流がありました。

  カンパニーが破産して私たちは職がなくなった。彼は才能豊かな人で、友人からカメラを借りて写真の勉強を始めました。そして≪ピクチャー・ポスト≫に記事を書いて成功したのに、雑誌はそれで終刊になってしまったのです。

  彼はカンパニーのメンバーをモデルにして写真を撮り、世間に先駆けてファッション写真というアイデアを持ちました。ギリシャ人の友人をとったそれは美しい、マリア・カラスのような写真があったのですが、ヴォーグには残念ながら蹴られてしまいました。

  私は、オードリー・ド・ヴォスとのレッスンを続けていました。そんな時、ジョン・クランコが一緒に活動してくれるダンサーを探していました。18世紀に建てられたケントン劇場が壊されることになって、これを残すために応援を求めていたのです。

  ジョン・クランコの友人で芸術家のジョン・パイパーとロード・某(名前を忘れました)が、自分の領地内の古い農家を提供してくれました。クランコの最初のカンパニーです。メンバーは、ピーター・ライト、ケネス・マクミラン、マーガレット・スコット(後にオーストラリアンバレエスクールの校長)、ソニア・ハナ、私。もう一人男性がいましたが、名前が思い出せません。それから、けが人が出た時のためにエキストラとして、ヴァスィリ・スーリッチ(後にネヴァダ・ダンス・カンパニーを設立)とマルガリータ・テイトです。

  私たちは8人で。オスバート・ランカスターが助けてくれました。彼の娘が衣装を担当してくれたと思います。私たちはこの農家に住んで、朝の8時から夜の8時まで働きました。ジョン・クランコは休みなしに働いて、私たちは新しいパ・ド・ドウを創作し、『パイナップルボーイ』『美女と野獣』『トリッチ・トラッチ』など、クランコが以前に作った作品を練習しました。私はピーター・ライトと『美女と野獣』を踊りました。
 
  マクミランはこの時に振付に関して、クランコの影響を受けたのだと思います。

  この少し後で、私はサドラーズウェルズ・シアターバレエに入りましたが、バレエ団はとても貧乏でした。食事は出ましたが、誰かが組み立てたテーブルで食べて、床に寝ました。若かったからできたのでしょうね。本当によく働いて、ケントン劇場を残せるだけのお金も貯めることができました。ロンドンから人が来て、ジョン・パイパーはスタジオで立派なパーティーを開きました。私はこの時、桃をコニャックにつけたデザートを生まれて初めて食べました。スタジオはいっぱいのろうそくに照らされていました。バレエを上演するためのセットもロンドンから届きました。

4. フランスに来たのはどんな理由だったのでしょうか。

そのころ私は、初めて足にけがをしました。コベントガーデンに籍を移してからも、残念なことに同じ足に3回もけがをして、とうとう踊れなくなりました。関節の部分に骨の突起ができて、当時は手術ができませんでした。この哀れな足首のせいで踊れなくなったのです。それでも2年間は足を引きずりながらなんとか片足で踊って頑張りましたが、背骨が悲鳴をあげました。

ロンドンにとどまって、仲間がバレリーナとして成功していくのは見ていられなかったので、パリに行ってマイムの勉強をすることにしました。私がパリに着いた時には、マルセル・マルソーはツアーに出ていたので、エチエンヌ・ドクルーのところに行きました。彼はちょうど歩く動きを研究しているところで、私は6週間の間、ひたすら歩きました。私は歩くことに飽き飽きしてドクルーの学校を離れることにしました。彼は私にバレエをやめてマイムをやらないか、と言いました。「生活できるかしら?」と訊くと、ほかの人と同じようにしなさいと言われました。周りを見回すと、貧しくて汚くて、飢えかけた生徒ばかりでした。

最終的に、私はジャック・ルコックの下に行きました。ちょうどスクールを開いたところでした。彼は私がダンサーであることを気にしなかったので、彼のところには長い間いて、カンパニーで働きもしました。ちょっとだけマルセル・マルソーとも仕事をしましたが、マイムで食べていくのは大変なことでした。ジル・セガルと旅回りをして、フランスのいろいろな場所を見ました。

TNP(Theatre National Populaire)でミシェル・カコヤニスの助手をしたこともあります。ユーリピデスの『トロイの女』のコロスの指導を任されて、いい経験になりました。ブレヒトの『マホガニー』では、ジョージ・ウィルソンの助手をしました。

  1968年には何もかもうまくいかなくなって仕事がなくなりました。それで、教えることを始めました。交通手段がなくて、モンパルナスとアスニエールの間を犬と一緒に歩いて往復しました。

  こうして、教えることを決意しました。劇場の仕事を得るのは困難でしたし、マイムでやっていくには弱すぎました。以来35年以上、私はパリで3つのコンセルヴァトワールとマリウス・プティパ・コンセルヴァトワールで教えてきました。

5. 現在≪モダンダンス≫と呼ばれているものには、懐疑的なようですね。

  そういうわけでもないのです。
  今心配しているのは、クラシックバレエの位置というものについてです。なんだか見放されてきています。クラシックバレエのダンサーになるのが大変なのは誰でも知っていますね。
  けれども、せっかく身につけたテクニックを、無駄にしてしまっていいのか。

  コンテンポラリーダンスのほうがもっと自由ですよね。簡単だとは言いませんが、制約はずっと少ない。ただ、ダンスを通して何を伝えようとしているのか?
  私はヒップホップのほうがもっとオープンで、外とのコミュニケーションがあるように思います。コンテンポラリーは、ちょっと届きにくいところにあると思います。

 ルコックのもとでマイムの勉強をしていたインド人がいました。インドにはあまりにもたくさんの方言があるので、農業を発展させ生産性を上げる方法を教えるのに言葉の問題にぶつかっていました。そこで、小さなマイムのお芝居を作って教えたのです。人は言葉を超えて、伝えることができるという証明だと思います。

  私はテクニックばかりが大事とは思いません。トウシューズを履いていようがいまいが問題ではありません。ただ、コンテンポラリーダンスというものは、女性が持ってない力を必要とすると思います。女性の体には過ぎた負荷がかかるので、足が太くなります。

6. コンテンポラリーダンスは少し現実離れしているということでしょうか。

  こういうふうに考えてみましょうか。

  50年代には、私は当時サドラーズウェルズ・バレエと呼ばれていたロイヤル・バレエで踊っていました。
  私たちは踊る俳優であることを求められていました。踊れることは必須ですが、個性が尊重され、役柄をどう演じられるかが大切にされていました。技術的にできる、できないを超えたところで・・・。もちろん優れたテクニックは大事にされましたけれども。当時はほんとにさまざまな性格の役がありました。二ネット・ド・ヴァロワがよくいっていました。「あのダンサーの顔が好きなの。」
  ド・ヴァロワがダンサーと契約するときにはこれが大事な条件だったのです。テクニック以上の何かー存在感―を持っていること。舞台に出た時の存在感が必要でした。

  『レイクスプログレス』『チェックメイト』のようなバレエを踊りましたが、例えば『チェックメイト』はドラマです。愛と死の間で行われるチェスのゲームで、死が勝ちます。単なるゲームでなくて、大きなドラマが進行している。ここではバレエのテクニックはもちろん重要ですし、我々もテクニックを磨くことを怠りませんでしたが、それを超えてドラマチックに、コミカルに、抒情的に演じることが大切だったのです。
  私が個人的に思うことですけれどね。

  あの頃の劇場を思い出してみると・・・。ウォルター・ゴアは人間的におもしろくて、優れた振付家でした。ド・ヴァロワの『レイクスプログレス』は彼のために創作されました。でも、私が初めて見た時は、ロバート・ヘルプマンが踊っていました。ロバートはとてもドラマチックで、最後の死の場面など、グロテスクで恐ろしい感じでした。その後ゴアのを見ましたら、その解釈はずいぶん違いました。ゴアのレイクは弱い人間で、その最期もそれなりです。人生は彼にとって大変過ぎました。人に流されやすく、壊れやすいのです。田舎育ちの少年がロンドンに来て財産を手にする。賢くないので、財産はあっという間に飛散してしまう。世間知らずで純朴だったために破滅したのです。

  私は、こちらがオリジナルな意味だろうと思います。ゴアの、弱くて、純朴な若者のほうが真実味を感じられます。

  あの時代に作られた、多くの優れたバレエが忘れられて、なかったことになってしまっているのは、本当に残念なことです。初期のランバート・バレエの作品や、ゴア、アンドレ・ハワードのバレエ等。

  アンドレ・ハワードは振付をしただけでなく、衣装をデザインして製作しました。『容赦なき美女』(La Belle Dame sans Merci)をイヴォンヌ・メイヤーのために作りました。ミロラッド・ミスコヴィッチが若者を踊りました。こういうものも忘れられて消えてしまいました。アンドレは自殺したとおもいます。仕事もなくなり、誰にも構われなくなって。でも私は彼女が好きでしたよ。

  マリー・ランベールはたくさんの人を見出しました。アシュトン、アントニー・チューダー等。彼女は結局コンテンポラリーのほうに向かいます。ド・ヴァロワとはクラシックでは競えないと思ったからです。彼女が作ったバレエは皆どこかに行ってしまいました。
  あの頃ロンドンでは、マーキュリーシアターで日曜バレエクラブというのがあって、若い作家たちが作品を発表していました。

  今はもうコンテンポラリーダンスだけになってしまいましたね。

7. 今ではクラシックバレエ作品を作ろうとする人はいないということでしょうか?

もしも、クラシックバレエに派生した作品を作っても、誰も舞台にのせてくれないでしょう。

本当に何もありませんね。一つだけ、先日オペラ座で見たジョゼ・マルティネズの作品がそうでしょ
うか。豊かで熟知されたクラシックのテクニックが使われています。アイデアを示すためにダンスがあって、私はそれが嬉しかった。もっとそういうものが出てくるといいですね。振付家を見つけなければ。今は、踊りについて完璧な知識を持った人物がいないのです。

それは、シンセサイザーで”作曲された”音楽に似ています。ボタンをおすだけでない、本当に音楽
を書く訓練を受けた人が必要です。バレエで言えば、クラシックバレエのダンサーとしての訓練を受けた人が必要です。テクニックは常にアイデアに支配されるべきであって、アイデアがテクニックに左右されてはいけません。

8. テクニックとは?

マーゴット・フォンティーンはテクニックがなかったという人がいます。私はこう言いたい。現代の
ダンサーはスポーツ選手として育てられています。けれども、ダンサーはフープやこん棒を投げては回りながら受け取るようなスポーツ選手とは違います。もっと優れた技術を持ち、よくトレーニングされています。現代の先生たちは、70年、80年前の教師に比べて体のトレーニングについての知識はずっとたくさん持っています。でも、昔はフォンティーンのような人がいました。私に言わせれば、彼女は完璧なテクニックを持っていました。しっかりした個性をもって、一つのバレエを踊りとおしたのですから。偉大な芸術家でした。もし欠点があったとしても、見せなかった。彼女の踊るのを見ていて、テクニックが足りないと思ったことはありませんでした。ラインが美しく、決して180度に足を上げようなんてしなかった。そんな必要はありませんでした。6回も7回も回らなかったかもしれませんが、そんなことは問題になりませんでした。

マーゴが舞台に登場する。それだけでその存在感に圧倒されました。
登場するだけで何かが起こる。これをイギリスのダンサーたちは伝統として追及しているように思います。舞台に出ただけで、その存在を示し、何かを感じさせる。

  テクニックといえば:ナディア・ネリーナはとても強いダンサーでした。彼女にはパートナーはいらない、一人でパ・ド・ドウが踊れる、なんてよく言ったものです。アシュトンは彼女のために『ラ・フィーユ・マルガルデ』を創作しました。あのリボンの踊りは複雑ですが美しい。バレリーナはずっとバランスを保っている。ナディアは強いテクニックを持っていましたが、役柄を踊る時は、ダンサーにとって難しい踊りであろうともいとも簡単なことのようにやって見せました。

  この時、ママのシモーヌを演じたホールデンは素晴らしかった。ここに英国のバレエの強みがありました。偉大なキャラクターダンサーで、どんな役もこなしました。

9. いわゆる”スター性“と本当の演技者とは区別しているようですね

  はい。全く別なことです。

  例えば、マノンがパーティーの場に登場する。客席がマノンに気づくのは、舞台上の人たちがそちらを見るからではなく、彼女が出てきたからです。
  リーン・シーモアにはこのパワーがありました。何かすごいジェスチャーをするわけでなく、存在するだけで目を向けさせる。非常に高い集中力で、実在感のある存在の仕方なのです。役の人物として、確たる存在としている。見る人はそれを感じます。

  シーモアは当時のイギリスバレエの真の伝統を生きている踊る女優でした。こういう存在が必要とされていました。

  それはスター性とは異なります。その役を作り上げて演ずる。踊っている役を俳優として生きるということです。

10.マイムの役はどうですか?

  ロイヤルバレエにはプリンシパルダンサーがいて、この人たちはテクニシャンでした。それと、キャラクターダンサーがいて、この人たちもプリンシパルでした。『白鳥の湖』の王妃などを演じて、舞台を支配しました。

  踊りのテクニックが足りない誰かに衣装を着せて、王妃と思わせようというのではありません。ダンサーとしてのキャリアを持っている人たちがこういう役を演じるのです。カンパニーのドラマティックな面を強化する大切な存在です。

  デンマークにはこの伝統が残っていますね。カーステン・シモーヌは美しいバレリーナでしたが、後にキャラクターダンサーとして舞台に立つのを見ました。

11.ドラマ、という観点から見て、”ミルタ“という役はどう踊られるべきなのでしょう?

  現代の『ジゼル』はアンバランスになっています。2幕では、ミルタが悪霊としてこの場を支配すべきなのです。

  ミルタはジゼルとアルブレヒトの愛によって力を砕かれる。でも、強い憎しみのパワーを持っています。そして、復讐をしようとする。一方で弱々しい存在であるジゼルは強い愛の力でアルブレヒトを守ろうとする。ここに『チェックメイト』と同様のゲームが生まれるのです。愛の力と、闇の力の戦いです。

  テクニック的には、床に触れないかのように踊る、素晴らしいミルタを何人も見ました。とても大切な役です。よいダンサーであると同時に、女優としての力のある人が踊れば、より面白いドラマが生まれます。

  ヒラリオンは面白おかしい人ではありません。演技巧者で、見た目もハンサムであるべきです。好青年の、若い農夫なのですが、嫉妬に囚われているのです。突然侵入してきた男、しかもジゼルをだましていると自分だけが知っているのです。

  中身の濃くキャラクターがたくさん出てきて、伝えたい内容のしっかりしているバレエはとてもおもしろい。これを取り上げて、テクニックの面だけでなく見ていくといい。役を演じられるというのも相当な技ですけれどね。

Copyright: Société Auguste Vestris